2018/07

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「原点民藝」
著者 池田三四郎 発行 1986年 
写真家の後、民藝運動に共鳴し、松本民藝家具の社長を務めた
池田三四郎のフォトエッセイ。

この本の巻末に、全国の民藝館案内があり、その中に

松本民藝生活館 近日公開予定

とある。

今は無くなっていると思うが、昔、松本駅前の地図の片隅に
● 松本民藝生活館
という、文字を見つけて、探して行こうとしたが、どうしても見つからない。
あとで、松本民藝家具の職人の寄宿舎であるから、外部の人は入れないことを
知った。


この松本民藝生活館の本を入手した。
発行が松本民芸生活館となっている。
初版は昭和46年で、落掌したのは昭和53年の3刷だから、少なくない冊数が
発行されたことが想像出来る。

この目次に「クラフトの体験と知恵」「クラフトの組織」という項目を見つけ
いささか驚いた。

紐解いてみると、以下のように使われている。

「クラフトの体験と知恵」
 昔はよく「農は国の基」と言われたが、私はこれを「クラフトはは国の基」といいかえたい。
勿論クラフトとは人間の手に夜技術的な仕事のことである。このクラフトの錬成によって、
クラフトを生活の手段にしようとしまいと、人間というものはどこかで、このクラフトの錬成に
よって得られる健康な「行」の知恵を身につけなければならない、と信じている。

「クラフトの組織」
 われわれはかつて危機に瀕した家族的クラフトの集団を組織化することによって、故柳宗悦先生の
切なる希望である松本木工家具のクラフトの生命を護って来たのであるが、その在り方もここで
さらに一歩を進めて考えてみなければならない時点に至っていると思うのである。
 とく問題とすべきは後継者である若いクラフトマンと、新しいクラフトマン・シップ(職人道)の
形成のためにどのようにすればよいか、これが技術的クラフトの伝承を当時に今後の民芸活動の
前向きな方向として考え、実践していかねばならない大事なところに立っていると考える。



と、ある。

平成2年に沖積舎から発行された、同じく池田三四郎の「松本民芸家具への道」にも
クラフトの文字は出てくる。

 もともと民芸の仕事は、人を集めて、機械を使って、規模を大きくしてやれば良いというものではない。
なんといっても手仕事だから、クラフトマンを育てなければいけない。クラフトマンは簡単に
育つものではないのだから、急に生産量を増やすことは出来ないのである。


 そもそも、池田三四郎はカタカナを好んだ人のようで、文章には民藝という
ことばのまわりに、クラフトだけでなくパッションやヒューマリズムやら
セクショナリズムなどカタカナがやたらと出てくる。だから、「クラフト」も
自然と出て来た言葉なんだろう。

 日本クラフトマンデザイナーの設立が1956年
 クラフト・センター・ジャパンの財団法人の認可が1960年。
 「松本民芸生活館」の発行が1971年。
 まったく、「クラフト」が認知されていなかったことに、少々、悲しくなる。

 そして、この地で「クラフトフェアまつもと」が31年も続いている。

 池田三四郎が今、生きていたら、「クラフト」をどんな風に使うだろうか、
そして、「クラフトフェアまつもと」が「クラフト」という言葉を使わなかったら、
などと、この冊子を見ながら、思った。



 ちなみに、池田三四郎は国井喜太郎賞の第一回(昭和48年)受賞者。
 


富山県高岡市。
最初は2007年(2006年?)に高岡デザイン・工芸センターに
呼ばれたのが最初の訪問で、その後、高岡クラフトコンペの
審査員や高岡地域地場産業センターのアドバイザー、
新高岡駅のギャラリーMONONO-FUの選品など、なぜか
切れずにおつきあいが続いている。

何か、高岡と赤い糸で結ばれているのでは…と、思っていたが
結ばれた先には、国井喜太郎がいた。


国井喜太郎は<工芸ニュース>を発行していた、産業工芸指導所の
初代所長。財団法人工芸財団は<国井喜太郎賞>を授与しており、
その受賞者はわたしが<クラフトたるもの、こうあるべき>を
実践して来た人が多い。
その国井喜太郎は高岡出身で、高岡工芸高校の校長と
富山の工芸指導所の所長をしていた時に、国から呼ばれ
産業工芸指導所の初代所長になったらしい。


なぜ、<産業工芸の父>と高岡の繋がりに、気付かなかったのか。

今更ながら、調べるつもりだ。


 


クラフト・センター・ジャパンのクラフト見本市2014に掲載した文章です。  
流通の話をするにあたり、まずクラフト・センター・ジャパン(以下CCJ)の歴史を振り返ってみる。  CCJの発足当時からの大きな活動の柱に選定業務がある。良質なクラフトの選定をしたものを販売する展示場は、日本橋の丸善に財団法人として認可された1960年の前年(1959年)にできた。公益法人で直接、販売にかかわることができないため、丸善の工芸品課、輸出の場合は輸出部を通じ、販売にあたらせるといった独特のシステムを採用した。常設展示場は日本橋本店以外、後には札幌、名古屋、京都、岡山にも同様の場所を持ったため、選定されると一気に5カ所の売り場を持つことになったのだ。  作り手にとって販売先は一つでも多い方が良い。ただし、売れない場所が無駄に増えても効率は良くない。その点、丸善の売り場は、選りすぐりのものばかりであるから、お客も安心して買える。プレゼントや海外の土産物は必ず丸善で買う人とか、お歳暮や記念品はこの売り場で選ぶ法人もあり、選定されれば他の仕事をしなくても良いような作り手も、少なからずいたようだ。  しかし、その程度しか生産(販売)量がない、とも読み取れる。クラフトの流通の悩みはそこにある。数ができない。注文してもなかなか入荷しない。待たせて当然、といった空気がある。また、モノによっては、できあがりが毎回違うものもある。量産ものしか使わない人には信じがたいことだろうが、陶磁器では焼き色、手書きの絵だと筆の勢い、ガラスも手吹きだとニュアンスが微妙に違ったり、染め物も色で具合が違ったりすることもある。漆はこれらに比べれば安定した仕上がりだが、なにせ、作るのに時間がかかる。鉄鋳物など、型を使い、ある程度の量産ができるものもあるが、おおかたは、扱いにくく、もうけにくいのだ。  ただ、個人作家ばかりがクラフトではない。企業としてクラフトを作っているところもある。発足時のメンバーである、佐藤潤四郎、吉田丈夫の両氏はカガミクリスタルのデザイナー。加藤達美氏は北欧の窯業所で学び、帰国した後、ムーンライトシリーズをデザインし、瀬栄陶器で製作、Gマーク第1回を受賞する(現在はセラミックジャパンが復刻している)。このようにデザイナーと組むクラフトは古くからあるのだ。ではクラフトの生産に向く工場とそうではない工場の違いはどこにあるだろうか。デザイナーも、クラフトの精神を持ったデザイナーは、図面だけでは済まさない。足しげく工場に通う。わが子の出生を任せるのだから。任された工場はデザイナーの意図を組み、体現に向けて原料も探し、治具も開発し、討論も試作も重ねて生み出す。効率を重視したら、ブームが過ぎた品物は廃盤にする。しかしクラフトの精神を持った工場は一年に数回しかこない注文も作り続ける。飽きがこないから、買い足しが必ずある。それに応えるためだ。量が作れても作れなくても、やはり効率よくもうけるようなモノではない。  さて、流通に話を戻す。昨今、全国でクラフトフェアが盛んで、開催も増えている。土日だけ、公園等で開かれるクラフトフェアは作り手と使い手が直接、接せられる良い機会だ。中にはクラフトフェアを回って、一年、終わる作り手もいるようだ。だが、このクラフトフェアだけでモノづくりを完結してほしくない。多くのクラフトフェアは出展料だけで後は売り上げが100%、現金で入る、言って見れば割の良い商売だ。使い手の意見が直接、聞けるのも良い。だが「店に卸す」ことは自分を高めることであることを忘れないでほしい。卸である以上、店も利幅を取る。その割合が大きすぎると感じる作り手もいるようだ。しかし、店にあることで、注目され、お店のコーディネイトにより違う見え方をし、普段会えない使い手に使われる機会を得るのだ。さらに、プロである店主の厳しい意見も聞ける。  一方、お店の方にはこうあってほしい。ネットの発達により、作り手と使い手の距離は驚くほど近くなった。だが、すべての使い手が作り手に会える訳ではない。売り手は作り手の代弁をするのだ。そして、作り手には使い手の代弁をする役割も担っている。そのためにはまず店主みずからが品物を買って試すこと。使い勝手はもちろんだが、値段相応の作りをしているか、作りは安定しているか、などを厳しくチェックしてほしい。流通に乗せることによって、作り手も売り手も、そして使い手も一歩上を目指せる。  丸善の売り場には愛媛県の砥部焼が常に置かれていた。量産ができる工場だが、手作業のため、仕上がりは多少ムラがでる。工場では丸善に納めるものは出来がいいものだけ取っていたそうだ。それはCCJへの敬意の表れでもあり、ここのお客の眼が肥えているので、良い仕上がりのモノを納めないと満足してもらえない、という緊張感からだったのだろう。お店をする方は、ぜひ、この当時の丸善のクラフトコーナーのようになってほしい。そして使い手にはこういった緊張感を持った店を育ててほしい。扱いにくいクラフトだからこそ、この図式が成り立つと思うのだ。(日野明子・ひとり問屋)

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 一時、ドメインが開かなかったこのseikatsukogei.com のアドレス。
復活しました。
仕事はじめは[TIFFCOM]です。
これをきっかけに、英訳してもらった簡単な
のつくり手紹介をする予定です。


  地震から3ヶ月。
 まだ厳しい生活を続けられる方々が多くいらっしゃいます。
 直接のお手伝いが出来ずにいるもどかしさを抱えながら
自分の出来る事を少し始めます。
 杜の都の「うつわのチカラのわ」。
 こちらに関しては、取り急ぎは、
うつわのチカラのわ」HPおよび、
うつわの連絡帖」ブログ
で、お伝えするとして、こちらでは「生活工芸」の話。

__________________________

 6/11、福島に向った。
 この祭りを知ってから、何年も逃したまつり『工人まつり』に向うため。
「工人」とは何か?三島町のHPによると

「三島町ではものづくりする人のことを工人(こうじん)と呼んでいます」

とある。
 特に『編組(かご類)』に特化しているという。
 このまつりには全国から籠好きが集まる、という。
 さらに、ここに行くには『只見線』に乗らなくては行けない。
 いや、「只見線に乗れる」のだ。
 JRの青春18切符の広告に数年前に使われて以来のあこがれの地だ。
 ただし、非常に列車が少ない。
 会津若松出発が5時台、7時台、その次がなんと13時台。
 
 だったら5時台…ということで5:59の会津若松発の列車に乗ったのだが
早起きは三文の得だった。
 朝もやの中の景色は、写真ではとてもじゃないけど、再現できない。
 空気が違う。緑が濃い。福島県がいかに豊かな土地であるか…を体感した。


 そして、会場。まつりの会場は『三島町生活工芸館』周辺。
 ここに150もの「工人」が集まる。
 籠だけではなく、木工や陶器も混ざっているが、とにかく
手作り感が溢れている。テントに手書の看板。
ほっぺたの赤いおばあさんやおじいさんが「わしがつくったんだよ」
…と言いながら、売っている。一見すると同じような籠に見えるが
人によって丁寧さが違う。性格や技量、素材の処理などの違い、
形はほとんど違わないが、仕上りが違う。ただし値段はほぼ皆
横並び。通い慣れているお客は、ひいきのテントに直行して買い物をして行く。

 この「三島町」のモノづくりの歴史は、千葉大名誉教授の宮崎清先生の
30年前の訪問から始まる、という。一度、宮崎先生の一般を対象にした
講義を聴いたが、この小さな町に来て、町の住民が籠編みを得意とする、
ならば、籠編みを売りにしよう…と発案した宮崎先生と、それを信じて
進んでいった住民達は素晴らしいと思う。
 最近、コミュニティーデザイナーの「山崎亮」さんが「情熱大陸」で
村おこしの手法として取っていたやりかたを、30年前に始めているのだ。
 自分たちの「日常」が、財産」である、ということを知った時
さぞやびっくりしただろう。
 長老に聞いたところ、自分たちの道具としてだけでなく、
年始の挨拶がわりに、お医者さんなどに、笊・籠は使っていたらしい。

 活動が実り「三島生活工芸館」という建物が出来た。
 この建物はしっかり使われている。
 長老達が編み講座などを定期的に開いてモノづくりを伝えている。
 これが1回きりの講座ではなく、本気モードの7回連続講座などなのだ。
 教え、教えられ、人が通い、町が活気づき、技術が伝わる。
 「最初は大変だったんだよ」と長老は言っていたが、粘り勝ちしたようだ。
 
 われわれのような商売をしている人に取って、籠編はつくり手が
見つけにくい。何故かというと、多くの地域が専業ではなく、農閑期などに
小遣い稼ぎという感じで作り、それを地域のまとめ役が買い、売ることが
多いからだ。片手間仕事といっても、毎年やっていればプロだ。
日本のものづくりの底力は「半農半工」であったのだ。
 
 ついつい「専業のモノづくり」=プロ。と思いがちだが、日本の
モノづくりは多様だ。編組のように効率化をしにくい作業はこれからも
「半農半工」が主流なのかもしれない。

 そして「生活工芸」という言葉。
 「生活工芸」は「生活の中に寄り添う工芸」として使っていたが
三島町の「生活工芸」は「生活の中に息づく工芸」であることを知った。
彼らの持っていた技術を活かし、見事に成功した証しに、本当に
みんな楽しそうにまつりに参加していた。
 ちょっといじわるな質問を長老に投げかけた。
「喧嘩などなかったんですか?」と聞いたけど笑って首を横に振っていた。


 さらにもう一つ考えさせられたのは「デザインってなんなのだろう」
ということだった。もう25回目というのに、まったくの手作りの
まつりだった。看板もチラシも。緑の木の中でのまつりにはそれが
似合っていた。…というか、その(わるい良い方をすると)やぼったい
看板の中で、本当の腕のいい職人の籠を見つけられるか…と
挑戦状を叩き付けられた思いだ。
(もっとも、緑と木の葉の敷かれた地面を歩くのが気持ち良くて、
いつしか、その挑戦状はどこかに忘れて楽しく会場を歩いていたのだが)


 少しの予備知識と、短い滞在時間の中で感想を述べるのは限界があるので
余計な感想は述べるまい。

 『会津若松発5:59の只見線に乗った風景』はお薦めです。

 百聞は一見にしかず。
 まつりも只見線も楽しめるはずです。






 人の想像を超える地震が起きてしまいました。

 わたしは阪神淡路大震災の際、テレビを持たず、ラジオと
新聞のみでその残状を知るしかなかったのです。
 今回、時代が変わり、(あいかわらずテレビは持っていないが)
USTREAMでテレビニュースを流しているので、リアルタイムの
画像が見られる様になりました。ツイッターはやっていないが、人の
ツイッターを覗いて、人の安否を確認できました。ツイッターを
毛嫌いしていたけれど、今回は、この存在の素晴らしさが解りました。
 そして「情報の大切さ」を認識しました。


 東京で、こんな風に冷静にいられることに半ば後ろめたさを
感じつつ、これから何をすべきか考えてしまう。

 幸い、知人・友人からは「無事」の連絡が来ています。
 しかし、その「無事」は身体が無事なだけで、窯が壊れ作品が壊れ、
家が崩れ、人によっては放射能の恐怖が迫って来ているのです。
 今すぐ、自分に出来ることは節電ぐらいだが、今後、被災した友人知人が
「元の生活」「元の創作活動」に戻れるよう、出来る限り協力したいと思います。


 それにしても、テレビに映し出される、救助の人たちの姿には頭が下がる。

 何もできない、自分がとにかく歯がゆい。



  笠間へ。
 笠間焼の窯業指導所があり、これから指導所を出て
独立する生徒さん達に、社会に出ると何が起こるかの
講義を3時間。

 で、翌日は、自分が生徒に混ざって授業を聴くことに。
 午前は、グラフィックの講義。
 笠間のデザイナー笹目亮太郎さん(事務所名:スプラウト)から
プロのアートディレクションの話しをみっちり3時間。
笹目さんの仕事は前から気になっていたけれど、
生のポスターやDMも教室に並べてくださったので
紙の質感もしっかり味わえ、質問もいろいろさせていただき
プロの仕事を教わりました。

 
 デザインはお客さまの「思い」をカタチにする仕事です。

 SproutのHPの一言。
 講義でも重要なキーワードになった。
 講義後、生徒さんと話していて、長続きしないギャラリーやショップや
「思い」がなかったり、お客様に伝わらなかったんでしょうね…と
いう話しをする。
 
 午後はのぶひろアーキテクトの加藤さんと笠間の町あるき。
 お稲荷さんのまわりをぶらぶら。
 ほんの30分だったけれど、面白かった。
 そして、店が町を作る、ということを改めて思い知った。


 
 笠間、なかなか突っ込みどころがありそう。






  高岡伝統工芸青年会に呼んで頂き、高岡に行って来ました。
高岡の主な伝統工芸は漆器と鋳物。
その中に、伝統工芸青年会にはロカビリーファッションのおしゃれ建築会社社長
もいればギャラリ―企画運営のアーティスト/デザイナーもいるというユニークさ。
しかし、多くは伝統産業の従事者。
 大体、どこの産地でも”商う”と”作る”という大きく二つの役割がありますが、
この二つの役割の人たちが、この青年会には参加しているのです。
 産地によっては、作った人が売る…とういこともあるけれど、
高岡の町では、”商う”と”作る”のバランスを保ちながら伝統を守り続けています。
 
 二日間、主に鋳物の工場見学をさせてもらいました。
”作る”工場に行けば、製品が見られる…と言う訳ではなく
分業体制により、特化した技術で、部品を専門につくる工場も多いのです。
20メートルの像も製作できる、とういう工場
「分解して設置場所に運び込んで、塗装などはどうするのか?」
尋ねたところ「着色専門の工場の職人さんに同行してもらい、
現場で仕上げてもらう」とのこと。
技術が一つ欠けてもモノは仕上がらないわけで、
信頼できる技をもった工場が支え合っていることを、
教えてもらいました。
 工場同士だけではなく、そこには、やはり”売る人”も不可欠。
仏具の生産比率が高いこの産地。仏具という特殊な業界は
セールスマンがいてこそ、商談はまとまります。
「わしらは、売りに行けんから」
「○○さん(商社の名前)がいるから、つくることに専念できる」
そんな話しを工場で沢山聞きました。
全員が、満足して商売をしている訳ではないでしょうが、
(そんなきれいごとの産地は、まず日本国中探してもないですから)
つくり手と売り手のバランスがかなり取れている産地でした。


 なにはともあれ、業界人しか見られないような工場に行ける
特権を、今回も十分、使わせてもらいました。
 どこかで、恩返しをしたいものです。


※ 今回、教えてもらって面白かった事。
 高岡市民はカレー好き!ということ。
 初日の昼。夜の居酒屋。
 二日目の昼(こちらはカレーうどん)。
でした、



 20110101


「バクダット・カフェ」
言わずと知れた、映画の名作。


 映画を見たことがある人は、曲のイントロが流れただけで
背筋がぞくっとしているに違いない。

 珈琲が好きな人は、あの、珈琲が飲みたくなるに違いない。

 そして、水戸に一人の「バグダット・カフェ」好きの女性がおります。

その沼田亜紀さんの一言。

 スクリーンで「バグダッド・カフェ」を観る。
それが叶うなんて、自分にとっては事件でした。
コアな映画ファンの方からしたら、ミーハーだと言われるかもしれませんが、
いいんです。好きなんだもん。
全文はこちら


 これだけ読むと「ふ〜ん。水戸の映画館でやるんだぁ」で済んでしまいますが
なんと、彼女は(もちろんご主人やその他いろんな人達の協力を得てですが)
自らスクリーン上映を決行させるのです!
 
 いいんです。好きなんだもん。

 これだけ読むと、お気楽に聞こえるけど、その紆余曲折と
苦難の道を乗り越えて、好きなことをやり通してしまう、素敵な女性なのです。

 ご主人は美味しいトラットリアのシェフ。
 ご主人からのひとことはこちら。


 残念ながら、当日、ブラックバードは休業なので、食事は出来ませんが
映画先→後日、水戸再訪問時にブラックバードに立ち寄って
「水戸プラザホテル、行きましたよ!」と言えば、あなたも常連の仲間入り(?)


 水戸プラザホテルはきちっとしたホテルで、こちらでの観覧もまた良いです。



※ この前、ナガオカケンメイさんがトークショーで
D&MOTELS STORE」という、彼らのプロジェクトに関して
「僕にとってはこの映画が原点なんですよね」
と、言っておりました。


開催概要はこちら


シネマ ブラックバード vol.3 in 水戸プラザホテル
『バグダッド・カフェ ニュー・ディレクターズ・カット版』自主上映会

■開催日:2010年11月14日(日)
■時間:①13:00〜 ②15:50〜 ③18:40〜
(開場は各回30分前です)
■入場料:前売 ¥1,200/当日 ¥1,500

■チケット販売窓口:トラットリア ブラックバード、水戸プラザホテル
(今回より電話およびメールでのご予約を承ります。
「お名前、上映時間、枚数」を必ずお伝えください。
支払・受取は当日で結構です。
029-224-5895 または info@blackbird-mito.com まで。
※こちらの予約はトラットリア ブラックバード宛となります。
ブラックバードにご予約いただいたチケットは
水戸プラザホテルで上映日前に支払・受取をすることは
できませんのでご注意ください。)

■会場:水戸プラザホテル 1F アンフィシアター(視聴覚会議室)
■定員:各90名
■交通のご案内:無料シャトルバスがご利用いただけます。水戸駅南口バスターミナル内、1・6・7・8番乗り場より約15分。発車時刻は水戸プラザホテルHPでご確認ください。車の方は、水戸プラザホテルの駐車場をご利用ください。
■共催:シネマ ブラックバード プロジェクト、水戸プラザホテル
■企画:シネマ ブラックバード プロジェクト
■問合せ:シネマ ブラックバード プロジェクト(トラットリア ブラックバード内)029-224-5895、水戸プラザホテル企画室 029-305-8100

*今回も、彩の国保育園にて有料で託児をご利用いただけます。
詳しくはこちら

■作品紹介:
製作から20年、この名作を後世に残すべく、パーシー・アドロン監督自らが再編集、なんと全てのカットについて色と構図(トリミング)を新たに調整し直し、最高に美しいバージョンの『バグダッド・カフェ』が誕生。2008年のカンヌ国際映画祭で初上映され、大きな歓声で迎えられたこの〔ニュー・ディレクターズ・カット版〕が、いよいよ日本のスクリーンに。

監督:パーシー・アドロン
出演:マリアンネ・ゼーゲブレヒト、CCHパウンダー 他
2008年/ドイツ/108分/デジタル上映